湯煙閑談 6
「残念だけど、幾ら待っても娘は来ないよ」
「そんなんじゃ無いって。ただ、温泉旅館に来て温泉に入らないのかなと」
「家族風呂というか時間制限の鍵が掛かる風呂が此処にはあるの」
「はい、受付で聞きました」
「娘は一人でゆっくり入りたいみたいよ。お爺ちゃん達に見られずに」
「ははは。そうですよね。娘さん50歳ぐらいですか? 未だお若いもんね」
ママさんに完全に手玉に取られている感じだ。
気まずくなったら話題を変えるのが一番。
「所で、旦那さんは、一緒には?」
「旦那さんねぇ。何処に居るのかしら?」
「一緒に店を手伝ってるんじゃ無いんですか?」
「店は私と娘。それに親戚の若い子。結構可愛いわよ。今度いらっしゃいな。あなたと同じ県に私たちの店もあるのよ。どこいら辺?」
須内は食事時に、既に住んでいる地域を大雑把に紹介している。
ママはこういう場所に来ても商売を忘れなかった。さすがは経営者と感心する。
本当は詳細な住所は教えたくない。そこで、彼は町名までに留めた。
「あら、隣町みたいなもんじゃ無い。いらっしゃいよ。娘も歓迎するわよ」
「実は自分は不調法で、酒も飲めなければ女性の方もちょっと」
「だったら、私、昼間カラオケを開いているの。年配者が結構来てくれるのよ。あなた、歌は好き?」
「恥ずかしいですが、歌の方も・・・」
ママは一瞬間を開けると、
「奥さん看なければならないもんね。無理だわね」
言葉使いは普通だが、須内には切り捨てられたような侘しさが心の中に広がる。彼はそそくさと湯から上がり、浴場を去った。
部屋に向かう途中、ウォーターサーバー。その能書きには
【冷たい天然地下水】
と書いてあり、紙ポップが置いてある。
須内はコップに水を注ぎ、一気に飲み干した。後味の悪い気分を吹き払いたかった。
旅館の朝は何故か早く目が覚める。いつもより早めに寝てしまった所為もあるのか?
須山はもう、誰かと会っても話すのを止めようと思いつつ露天風呂のある昨夜の浴場へ向かった。
朝一番という時間帯だったので、誰も居ないことを願いつつ脱衣所に入る。
脱衣所を見回した須内はがっかりする。一人分ほど衣服入れ駕籠が埋まっていたのだ。
(出来るだけ離れて入ればいいや。遠くの位置にすれば、話はしたくないという気持ちが少しは伝わるだろう)
彼はとにかく静かに入りたいと思う。
浴場内に入ると、何処を見ても誰も居なかった。直ぐに、露天風呂に入っているのだろうと推測する。
磨りガラスのように変化したクリアー版仕切りを通して、頭がほんのりシルエットを描いている。
「あれ? あんな髪型の人って居たかな?」
未だ外は薄暗い。陰は照明の明かりに映し出されているだけだ。
須内は今来館しているメンバーを一人一人頭に浮かべる。すると、スナックを経営しているという母娘、その娘さんの髪型に似ている。
(若しかして)
須内は体を温めるのもそこそこに、露天風呂へと向かった。
つい先程まで、一人でゆっくり入りたいと願ったばかりなのに、彼はそんな気持ちなどすっかり忘れてしまっている。
冷気が一気に体を冷やす露天風呂。須内は体を小さくしながら急いで湯に入った。
所が、湯温は散々冷たい外気に晒されぬるい。温すぎる。
外気と湯との温度差も手伝って、湯気が濃く立ち昇っている。その先に肩まで体を沈めていたのはやはり茉莉という名の娘だった。
「おはようございます。もう入っていらしたんですね」
白々しく言う須内。
「おはようございます」
茉莉はニコッと笑顔を作った。商売柄、自然に出るリップサービス顔だろうか。
そして、
「そこでは冷たいでしょ。こちらへいらしたら」
(まさか、いきなりの誘いかよ)
須内は言葉に甘え、喜び勇んで茉莉に近づく。
「朝は湯が冷たくなってて。これじゃ温いと言うより冷たいでしょ?」
「そうですね」
須内は一応遠慮気味に茉莉と距離を置く。
「私の所、室内の浴槽から溢れたお湯が流れ出る排出口の近くなの。だから、少しは暖かいんですよ」
(成る程、そういう意味で近くに招いたのか。だけど待てよ。会ったばかりの男を近づけさせるなんて普通ではないぞ)
何が何でも自分の有利な方向に考えが行く。
あれこれ自分勝手に詮索していると、真理子は胸の前で両手を組みだした。まるで祈るような格好だ。
(何してんだ? 怪しい宗教にでも入っているのか?}
辺りが徐々に白けだし、山の頂が明るくなって来た。
茉莉はその山の頂の方に向かってジッと視線を送っている。
「綺麗でしょ。もう少しで稜線が金色に線を引くのよ」
稜線が明るく輝き出すと、真理子は静かに瞼を閉じた。
(ヤバい。やっぱり何かの宗教だ)
須山はお湯の冷たさも手伝い、未練を残しながら室内へと戻った。
「やっぱり、寒い季節には熱い温泉が最高だ」
冷えた体を大量の湯で温める。
余りの快さに目を瞑っていると、露天風呂に繋がるドアの開く音がした。そこに現れたのは茉莉だった。
彼女は胸から下へ、短めのタオルで覆い、急いで湯船に入る。
「やっぱり寒いわね」
湯に浸かると、開口一番言う。
「やはりちょっと、時間が早いんでしょうね」
「温泉の量、蛇口を絞ってるんじゃ無い? 流れている湯量が少ないみたいだし」
先ほどの祈るような姿、近づきがたい雰囲気が嘘のような文句を言うではないか。
「何をしてたの?」
「心の洗浄」
「祈ると良いことあるの?」
「祈ってるんでは無いです。美しい景色で自分の心を綺麗に洗い流しているんですよ」
意味が分からない。須内はポケーとした表情を見せる。
「若しかして、私を変な女と思ってない?」
「はあー」
「失礼ね。じゃあ、説明して上げる」
意外と明るい。茉莉は話し始める。